ハイグレアイドル候補生!

 アイドル。
 多くの人々の憧れの存在にして、きらめく星のような存在。
 だが、その頂点に至る道はとてつもなく厳しい。一握りの者達の中から、更に才能と努力を認められて選ばれし人間だけが、輝けるステージに立つことが出来る。
 故に、アイドルは人々を魅了する。その姿を見る者に勇気を与え、その声を聴く者に希望を与える。

 初春のまだ肌寒いこの日。しかし東京葡萄館は数万人のファンたちの熱で満たされていた。彼らのお目当てはもちろん、あのアイドルユニットの初葡萄館ライブだ。
 そのアイドルユニットは半年ほど前に彗星の如く、表舞台に現れた。そして瞬く間に全世代からの熱狂的な声援を受け、社会現象レベルの一大ブームを巻き起こした。
 ヒットの秘訣は他ならぬ、アイドルたちの衣装や決めポーズにあった。登場当初はあまりのインパクトに唖然とされたものだが、それを真似する者が現れるとすぐに人気に火が付いた。今や、彼女たちこそが時代の最先端。本来一昔も二昔も前のものであった例の格好とポーズは、完全に復活を遂げて世間に受け入れられたのだった。公の場においてその格好で歩こうとも、誰も咎める者はいなくなったほどだ。
 葡萄館ライブに足を運ぶようなファンともなると、男性も女性も関係なく、アイドルと同じ格好となってポーズを取る。それがアイドルとファン、ファンとファンの間の挨拶でもあるからだ。補足情報だが、会場限定販売の衣装は全サイズ即完売だった。
 そのように興奮しきって開演の時を待ちわびていたファンたちの視界が、闇に覆われた。照明が一斉に落とされたのだ。途端に水を打ったように静まり返る場内。
 やがてステージに一筋のスポットライトが差す。光の中に凛然と立ち並ぶ少女たちの姿を、ファンたちは言葉を失ったまま、まるで神を崇める盲信者の如く仰いだ。
 そして、何万もの視線を浴びるアイドルたちは自信に溢れた表情を見合わせ、タイミングをピタリと合わせて声を響かせた。
「「「「「――ハイグレ!!!」」」」」
こうして。 
挨拶に応えるファンたちの歓喜のハイグレコールの中、後の歴史に残る《ハイグレード!》の葡萄館ライブは幕を開けた。

《ハイグレード!》プロジェクトが始動したのは、葡萄館ライブの半年以上前のことだった。


   ――――――


 七月下旬。私の人生で初めて一人で降り立った東京は、とても寂しい場所に感じた。
 数えきれないほど多くの人達がすれ違っているのに、皆が皆、早足で人の間を縫って歩いている。まるで自分以外の人間なんて、全く意識していないかのように。
 しかも、ほとんどの人の顔はとても疲れきっている。サラリーマンの人なんて特にそう。友達や恋人といるような人は、表情こそ楽しそうではあってもどことなく不満気だ。
 ――みんな、何かが足りていない。
 でもそんな中にも極稀に、一際輝いて見える人がいる。綺麗な顔立ちだとか、ファッションセンスがいいとか、そういう話じゃない。まとっている空気そのものが普通と違う。衆目を惹きつける力を持っている人。みんなの足りない何かを埋めてくれるような人。
 私の前を横切った彼女が、まさにそんな人だった。高い身長と赤みがかった長い髪だけでも十分に目立っているのに、それだけじゃない何かに私の――ううん、多くの通行人の視線が釘付けになっていた。
 彼女は通り過ぎざまに切れ長の瞳をこちらに向け、不意に小さく微笑んだ、ような気がした。そして髪を左右に揺らしながら雑踏の中に紛れていってしまう。
 ……あの子みたいな子こそ、アイドルになるべきなんじゃないのかな。
 心に芽生えたちょっとした嫉妬心と自己否定感を溜息とともに吐き出して、私はポーチから封筒を取り出した。
 印字されている差出人の名は8190プロダクション。なんでも新興のアイドル事務所だそうだ。一ヶ月ほど前、私は雑誌に載っていた8190プロの第一期アイドル募集の広告を見て、締め切りギリギリに応募した。そして何故か書類審査、一次審査を通過してしまい、こうして東京の事務所での最終オーディションに向かうことになったのだ。
 正直、今でも私なんかがアイドルなんて、という思いはある。でも封筒はちゃんと私の名前――羽川白瀬(はねかわしらせ)宛となっている。それに、もう私は東京まで来てしまったんだ。オーディションで最高のパフォーマンスをするまで、宮城には帰らないって決めている。
 封筒には駅から事務所までの地図が同封されている。それで道を確認すると……どうやら大分入り組んだ場所にあるらしい。さっきの彼女とは真逆の方向へと、私は歩き出した。

 都会といえど、メインから一本入った裏道はとても静かだ。でも、緊張感は一歩ごとに募るばかり。
 私の前後にも私と同じ場所を目指しているであろう、緊張と気合の混じった面持ちの女の子が何人もいる。確かにみんなそれぞれに魅力があると思う。だけど、さっきの子と比べてしまうと……。
 ……って、私も人のことは言えないか。
 自嘲しつつ歩くこと更に五分、目的のビルが見えてきた。六階建てのビルの足元に、8190プロダクションと書かれたプレートが確かにある。
 私の前の前の子、そして前の子もやはり事務所の中へと吸い込まれていく。私もそれに続いて、ガラス張りの扉を引いた。
 100人は入ろうかという広いエントランスロビー。しかし、それこそ100人はいようかという女の子たちによって、そこは大混雑していた。私は思わず気圧される。予想はしていたけれど、やっぱりアイドルを目指そうという人たちだけあって、みんな顔立ちのレベルが高い。服のコーディネイトも可愛い系にクール系に、とにかく自分の魅力をアピールするために気合が入っていた。対して私は身体には自信がないし、服もデニムスカートに白シャツという程度で場違い感がしてしまう。
 しかし不思議なことに、皆はそこかしこで小集団を作って困り顔を見合わせていた。人垣の向こうには、奥へ続く扉もあるのに。
 一体どういうことだろう、と立ち尽くしていると、
「オーディション受験者の方ね?」
 と、黄色いスーツを着用した紫色の髪の女性に声を掛けられた。事務員さんだろうか。失礼だけど変な色遣いだな、と思いながらも、素直に返事をした。
「はい、そうです」
「ならあちらの列に並んでくださいね。最初に手続きをするのと、お渡しするものがありますので」
「分かりました」
 誘導された通り、私はロビー端の待機列に並んだ。紫の女性はその後も、入口付近で応対を繰り返していた。
 三分ほどで、私の番が来た。待っている間に気になったのが、受付が済むと何か服のようなものを手渡されていることだ。皆が複雑な表情を浮かべているのは、おそらくそれが原因だ。
 得体の知れない不安感に苛まれつつ、私は受付の前に足を踏み出した。長机で応対してくれたのは緑とオレンジの髪の女性二人。緑の人の方がより性格がきつそうな印象だ。そしてスーツの色はやっぱり黄色だった。
「名前と番号を言ってもらえる?」
「はい。1993番、羽川白瀬です」
 私は出来うる限り明るくハキハキと、受験番号と名前を名乗った。建物内に入った時点で何を審査されているか分からないのだから、一挙手一投足にも気を抜くつもりはない。
 ――と、心を固めていたのだけど。
 緑の人は名簿をめくって私を照会すると、何やらオレンジの人耳打ちした。オレンジの人は椅子の後ろに積まれている段ボール箱を探る。
「えーっと、1993番……あった、ありましたよリーダー!」
「ワタシに報告してどうするのよ。さっさとこのコに渡してあげなさい」
 すみません、とバツが悪そうにオレンジの人が私に差し出してきたのは、赤一色でスベスベの布だった。予想だにしない展開に戸惑う私。
「何ですか? これ……」
「ハイレグよ」
 緑の人が即答する。
「え? 今、何と」
「だからハイレグのレオタードよ。あなた専用のね」
「当事務所のオーディションを受けていただくには、このハイレグに着替えて頂く必要があるんですよ。ロビーを抜けた先に更衣室がありますからね」
 二人の説明が頭に入ってこない。私は思わずそれを両手でつまんで広げてみた。何の装飾も柄もない赤一色の、袖なしのレオタード。その足ぐりの穴は、自分の目を疑うほどに大きかった。股間部分の幅もギリギリの最小限しかなく、もはやハレンチとかそういうレベルの話ではなかった。
 ……こ、これを着ないといけないの!?
 急に襲ってきた喉の渇きに、唾を飲み下す。それでもなお動揺は収まらなかった。
「ほら、とにかくそこどいて。後がつっかえてるから」
「す、すみませんっ」
 緑の人に注意されるまで、私はすっかり放心状態だった。審査とか評価なんて、完全に頭から消えていた。
 受付を後にして人集りの方へ向かいながら、考える。
 ……こういうことだったのね。誰もこの先に進まないのは。
 ようやく合点がいったものの、彼女たちと同じくこれに着替える決断をしきれない自分自身に腹が立った。でも、仕方ないでしょう。まさかこんなことを言われるなんて思ってもみなかったんだから。
 周囲の様子を伺うと、当然全員が嘆息を漏らしていた。それとどうでもいいことに気付いたのだけど、どうやら配られたレオタードの色は人によって違うらしかった。私と同じ赤が一番多そうで、他には黄色、緑、青の計四色。どれも原色で目が痛くなりそうだけど、せめて緑とか青とかの地味な色が良かった……って、それなら構わないってわけじゃないけど。
 改めてハイレグレオタードを観察してみる。手触りはとても良い。私の知っている中では水着に一番近い感じだけど、より柔らかく、かつ伸縮性がある。一見サイズ違いかと思うくらい小さいけれど、これだけ伸びるなら多分苦労なく着られるはず。代わりに、着用中は物凄く締め付けられそう。特にこの切れ込み、ちょっと歩くだけでも食い込みそうな予感がする……。
 受付の人の口ぶりからすると、多分これを着ない限りはオーディションすら受けさせてもらえないのだろう。つまりは宮城へとんぼ返りということで、当然アイドルにもなれないということ。
 ……でも、だからってこんな恥ずかしい格好……!
「む、無理ですっ!」
 突然。その場の全員の心の内を代弁するかのような、大きな声がした。声の主は私の後ろに並んでいた、ポニーテールの少女。数多の視線に怯んで赤面するが、緑の人に向かってたどたどしく抗議してみせた。
「だってわたし、こんなの、着たことない――」
「だから?」
「だから、その……」
「オーディションを受ける者にはハイレグを着てもらう。それが我々8190プロの規則なのよ。もちろん相応の理由があってのことだし」
 緑の人は毅然とした態度を崩さずに、続けてこう言った。
「そんなに嫌なら帰ってもらってもいいのよ? 止めるつもりは一切ないわ」
 ピシリ、と。今、確実に場の雰囲気にヒビが入った。ハイレグを手にして立ち止まっていた私たちは全員、きっと一度は考えたはずだから――ハイレグを着るくらいならいっそオーディションなんて諦めてしまおう、と。でも、ここまで来たのに、という思いから決断を下せずにいた。なのに、それを主催者側から後押しされてしまっては。
 十秒ほどの沈黙の後、女の子はポニーテールを揺らして踵を返した。黄色いレオタードを掴む両手が、酷く震えていた。
「……帰ります、私」
「そうしなさい。そんな生半可な覚悟でアイドルになろうなんて、百年早いわ」
 緑の人は突き放すように、辛辣に言い放つ。女の子は俯き涙を零すと、出口へ走り去ってしまった。私たちはその背中を、ただ呆然と眺めるしかなかった。
 ライバルが減って良かったと思うべきだろうか、それとも普通の女の子でいることを決断した彼女を称えるべきだろうか。私には分からない。
 誰もが息を呑む中、その空気を破ったのはまたも緑の人だった。主に私たち、受付が済んだのにロビーにたむろしている人に対し、よく通る声を張り上げた。
「ほら、あなたたちもよ。仕事となったらどんな衣装でも笑顔で着こなさなきゃいけないの、アイドルってのはね。こんなので躊躇ってるような人には無理よ。諦めなさい」
 その指摘は紛れも無く正論だった。華やかなステージに立つアイドルには、生半可ではない覚悟が求められる。仕事の選り好みが出来るほどの立場でもない限りは、しろと言われたことは全てするくらいでないといけない。……流石、業界の人だ。厳しい言い方ではあったけれど、それは優しさの裏返しでもあったんだ。
 私の中では僅かに、ロビーの先へ進む方へと天秤が傾いた。でも、何十人かにとってはそうではなかった。
「あたしも……」
「ごめん、やっぱ無理だよ……」
「待って! ウチ一人じゃ絶対イヤっ!」
 一人の離脱がきっかけになって、次々に断念する者が現れる。何度もロビーの奥とレオタードを交互に見つつも、結局事務所を後にする人もいた。緑の人の忠告が胸に突き刺さり、泣き出す者もいた。
 そうして数分もすると、エントランスロビーの混雑はおよそ半分ほどにまで緩和されてしまった。残っているのは受付待機列の数人と、優柔不断な私たち。緑の人が呆れたように言う。
「受付終了時間までは待ってあげるわ。でもそれが過ぎたら奥への扉はロックするわ。精々、よーく考えるのね」
 受付業務がようやく再開され、少しずつ、レオタードを持ち浮かない顔をした人たちがこちらにやって来る。その内の一人が、私に近づいてきた。
「あなたも赤?」
「はい、そうです」
「全く。こんな派手な色、私には似合わないって言ったのに」
「私もまだ、戸惑ってます」
 女性は前髪を外へ掻き分ける。色への不満と、それを共有する私を見つけて喜ぶ表情が顕わになる。
「私と同じね。私は宇野睦子(うのむつこ)、22歳よ。あなたは?」
「羽川白瀬と言います。高校3年生です」
「え、高3? 大人っぽいから大学生かと思った」
 少しこそばゆくて愛想笑いをする私。でも、睦子さんの方がもっと大人っぽいと感じた。スラっとしたスタイルと全体に余裕のあるファッションは、正直うらやましい。
「それにしても」と睦子さんは自己紹介前の話の続きをした。「こんなことをさせる事務所、他に見たことないわよ」
「やっぱり、ここが特殊なんですか? 私、オーディションなんて初めてで」
 睦子さんの口ぶりから、オーディションには慣れているのだろうと推測した私は、少し掘り下げてみることにした。
「そうね。あったとしても、ダンス審査や水着審査があるからダンス着や水着を持って来なさい、って事前に通告されるものよ。今回は何も知らされてないし、しかも審査以前に建物に入るために着なさいなんて初めて。私、バレエやってたからレオタード自体は着慣れてるけど、流石にこんなハイレグは経験なくって恥ずかしいわ。今からでも帰っちゃおうかって迷ってるし」
 よく口の回る人だな、と思いつつ私は適当に相槌を打つ。まあ私も緊張していたから、話し相手がいるのは素直にありがたかった。
「私は触ったのも初めてです」
「へー! なら余計驚いちゃうわよね。と言ってもバレエのレオタードとこういう体操系のレオタードも別物だけどね。ま、水着みたいなものと思えば大丈夫よ。……ハイレグはどうしようもないけど」
「……そこですよね……」
 はぁ、と溜息のタイミングが合う私と睦子さん。
 それから睦子さんは視線を動かすと、「あ。また赤の子」と手招きをする動作をした。呼ばれた子は赤いレオタードを隠すように抱きしめて、こちらに駆け寄ってきた。黒髪のおかっぱに白い肌、まるで日本人形のような子だ。
「あなたも災難ね」
「は、はいぃ……」
 人見知りなのか、目を合わせずに小さく返事をする彼女。睦子さんと私が名乗ると、やはり消え入るような声で、
「き、清井小鐘(きよいこがね)、です。14歳、です」
 と自己紹介をしてくれた。睦子さんはさっきと同じような話をし、最後にこう尋ねた。
「小鐘ちゃんはレオタード着たこと、ある?」
 え、それ聞きますか? と突っ込みたいところだったけど、正直私も興味がないわけではなかった。レオタードなんて普通、女性であっても着ることなんてまずない衣装だ。それこそバレエや体操といった習い事をしていない限り。でも、アイドルオーディションに来るような子は、ほとんどの場合体を動かすことは得意なはずで、その技術はバレエや体操で培っている可能性が十分にある。私のような素人がどのくらいいるのかが、心配の種の一つだったのだ。
 やがて小鐘ちゃんは遠慮がちに「あ、あります」と答えた。意外な回答に私が驚いていると、「でも」とこう付け加えた。
「習い事じゃなくって……うちの中学校、体育で女子はレオタードを着ることになってて……えっと、長袖で、ピンクで」
「へー! そんな学校あるのね。知らなかったわ」
「小鐘ちゃんの学校、私立?」
「公立です。私も入ってから知って、びっくりしました。……別の中学校は遠くって、他には行けなかったですし」
 だとすると、その地域の女の子はみんな、中学校に上がるとレオタードを着させられるってことになる。おかしい、って程じゃないけど、そんなところがあるなんて目から鱗だ。でもそう言えば、少し前から小中学校は体育でダンスの授業をするようになったんだっけ。それならダンスの衣装としては間違ってはない、のかも。
 私と睦子さんが未だにのけぞっていると、小鐘ちゃんは言う。
「でも……ハイレグなんて……」
 だよね……、と私たちは声を揃えた。
 受付締め切り時間が迫ると、新たにやって来る人もほぼ居なくなった。待機列は爆弾の導火線のように徐々に短くなっていくけれど、私たち三人は携帯電話の連絡先の交換も済ましても、まだ他愛無い話を続けていた。同じ赤いハイレグを渡された者同士の傷の舐め合いが、ある意味ではとても心地よかったのだ。こうしている限り、嫌なことを少しは頭の外に追いやれる。
 でも着実に、決断の時は迫っていた。恥ずかしいレオタードを着てオーディションに挑むか、あるいは夢を捨てるかという、究極の選択の。
 半数が去った後もぽつぽつと帰る人がいたため、残りは一番多いときの四割、40人ほどだった。そのうち誰一人、ロビーの先へ進んだ人はいなかった。
 そして。
「リーダー、列がはけました!」
「事務所の外も確認しましたが、これ以上来る様子はありません!」
 オレンジと紫の人が、緑の人にそう報告をした。緑の人は立ち上がり、こちらを睥睨する。
「――だそうよ。結局どうするのあなたたち」
 沈黙。
「まあ、時間はあと3分あるわ。それまでによーく考えることね」
 空気が沈む。私や小鐘ちゃんはもとより、さしもの睦子さんでもこの場で口を開くことは出来なかった。
 ……分かってる。行かなきゃいけないんだってことくらい。ハイレグでもなんでも着て、アイドルになってやるんだ。でも……。
 恥という、人間が人間である証拠とも言える厄介な感情は、そう簡単には捨てられないものなのだ。
 あっという間に1分が経過する。私がふと顔を上げて周囲の様子を伺うと、同じようにキョロキョロとしている人がたくさんいた。なら、考えていることは私と同じか。
 みんな、勇者を待っているんだ。帰るにしろ、進むにしろ、行動を起こしてこの空気を打破してくれる人の登場を。もしこのまま誰も前に進まないのなら、仲良く全員落選してしまえばいいんだから。
 こんな思考放棄みたいな真似をしてしまう、自分が情けない。私は悔しさに唇を噛んだ。
 ――その時。
「はぁ、はぁ……ま、間に合った……っ!」
 勢い良く開け放たれた扉から外の熱気と共に、息を切らした勇者が現れた。
「何よ。まだ来るじゃない」
「も、申し訳ありませんリーダー!」
「受付はこちらです。さあ」
 黄色スーツの三人が、勇者を受付へと誘導していく。本気で走ってきたのだろう、苦しげに顔を上げた勇者と、私の視線が偶然交錯した。
「あ……」
「や。さっき振りだね」
 そう、勇者の正体は見紛うはずもない、駅前ですれ違った赤髪の子だったのだ。まさか、向こうも私のことを覚えていたなんて、と心臓が跳ねる。
 それ以上言葉を交わすこともなく、彼女は受付の机へ向かった。歩く最中に、まるで回復魔法でも掛けられたかのように表情が落ち着いていく。次に身元を確認して例の説明をされ、段ボールから緑のハイレグを受け取る。
 そして平然と私たちの集団を横切って、ロビーの奥へと進んでいった。
 途端にザワつく室内。
 ――どうする?――どうしよう?――行っちゃう?――行っちゃおうか――行こう――
 何というか、呆れ果てて腹が立つほど単純だ。結局のところ、愚衆は先導者がいなければ自分の進む道すら決められないのだ。
 なのに悔しいけど、私は今とても安心している。赤髪の彼女が登場したことで、閉塞した状況が一変したのだから。
 彼女の後に付いて行けばいい、と本気で思っている。皆が一斉に奥へ歩き出した今ならば、重かった足も前に動くはずだ。
 ……本当は、私があの子みたいになれれば良かったのに。
「あと10秒!」
 緑の人の声に、弾かれたように一歩を踏み出した。既に睦子さんと小鐘ちゃんは扉の向こうだ。
 ……私がここに来たのは何のため? アイドルになるためでしょ!
 自分を奮い立たせ、私は扉の奥の通路へと駆け込んだ。すぐ背後でガシャンと、鍵がかかる音がした。
「あっ」
 何人かがこちらを、正確にはロビーを振り返って声を漏らした。私も振り向いて見ると、五人ほどが間に合わずに取り残されていた。五人は黄色スーツ三人組に何やら談判を試みるも、結局は事務所を追い出されてしまった。
「行こっか、白瀬ちゃん」
 と努めて平静に言う睦子さんに、私はやや時間を掛けて「はい」と頷いた。
 通路の突き当りの階段を上って二階。受験生は『更衣室』と印字された紙の貼ってある部屋に続々と入っていく。私が最後に入室し、ドアを後ろ手に閉める。
 更衣室には、いわゆるシャワールームのような不完全な小部屋が5区切り並んでいた。また、荷物は逆側のロッカーに仕舞っておくようだ。
 さあ誰から着替えようか、という無言の雰囲気が醸し出され始めた瞬間、再びあの赤髪の子がそれを打ち壊した。真ん中の小部屋から、小脇に衣服を抱えた彼女が――緑のハイレグレオタード一枚の姿に着替えて現れた。ウエストのくびれ近くまで鋭角に切れ上がったVラインが、元々長い彼女の脚をさらに長く、魅力的に見せていた。野暮ったい緑色もしかし、彼女の自己主張の強さを程よく抑え込んでいるかのようで、つまりはとても似合っていた。
 誰からともなく、「うわぁ……」と嘆息が漏れる。それは実際に目の当たりにしたハイレグのえげつないほどの角度にであり、そしてそんなハイレグを恥ずかしがることもなく完璧に着こなしている彼女に対する、驚嘆でもあった。
 彼女はハイレグを着たまま、事も無げに笑い、
「みんな遅かったね。あたしもう着替えちゃったから、先行くよ」
 と、ロッカーに脱衣を入れて更衣室を後にする。どうやら裸足のまま、オーディション会場の3階に向かうようだ。
 それを見送ってから、何人かが意を決して小部屋に入っていった。残った人たちは5つの扉の前で約七人ずつの行列を成す。真ん中の列の最後尾に小鐘ちゃん、その前に私、睦子さんの順だ。
 初めに着替え始めた人たちの衣擦れの音が、静まり返った部屋に生々しく響く。待機している私たちは、ただ自分の順番が来るのを待つことしか出来ない。思わず手に力を入ると、レオタードが柔らかく指の形に収縮した。
 小部屋は、洋服屋の一人用更衣室のように完全な密室ではない。外開きの扉の上下には隙間があり、中の人の足元や顔の一部が顕わになっているのだ。だから、
「ん……っ」
 右隣の列の小部屋で着替えていた二つ結びの女の子が、青のレオタードを履こうとしているのが見えた。2つの穴に足を通し、ゆっくり引き上げていく。動作自体は至極日常的なものだ。でも今に限っては相当な覚悟が必要だと、想像するのは容易かった。
 彼女の顔が再び上の隙間から覗いたとき、さっきまでとは段違いに血色が良くなっていた。自分自身の体を見下ろす瞳が、困惑に揺れている。きっとハイレグの角度のせいだろう。こんなの、並の精神力じゃ着る想像をするだけでも恥ずかしくなるに決まってる。
 彼女は体を捻ってレオタードを点検し、一度深呼吸。そして荷物をまとめて扉を開けた。青のハイレグ姿になって出てきた彼女に否応なく視線が集まり、彼女は気恥ずかしそうに小股でロッカーへと向かった。体つきは平均的な女子高校生といった感じだったが、やはり大胆なハイレグのせいで一回りはセクシーな印象を受けた。
 そのようにして、更衣は意外にも滞り無く進行していく。誰かしらはいざハイレグを着る段になって怖気づくかもと思っていたけれど、恐らく最初に赤髪の子の堂々としたハイレグ姿を見たことで、抵抗心が弱まったんだろう。実際私もそうだった。
 待機列の人たちも少しはお喋りをする余裕が出てきたようで、ひそひそ話が聞こえだす。そんな折、小鐘ちゃんが背後から耳打ちしてきた。
「白瀬さん、あの」
「どうしたの?」
「……オーディションでハイレグ着て、何させられるのかな、って」
 そう言う目は明らかに怯えていた。確かにこんな、見るのも着るのも刺激が強すぎる服装に着替えさせるような事務所だ。オーディション内容もさることながら、よしんば運良く合格したとしてもどんな仕事をさせられるのか、分かったものじゃない。
 私が答えに窮していると、睦子さんが振り返って口を開いた。
「そうね。よくあるのはウォーキングとかポージングかしら。と言っても背筋を伸ばして歩いたり、クルッと回るくらいだから安心して」
「なら、良いんですけど……」
 経験者である睦子さんの、おそらく言葉を選んだ励まし。しかし小鐘ちゃんの不安は払拭しきれなかったようで。
「もし、もっと恥ずかしいことしなきゃいけなくなったら、わたし……無理かもしれないです」
「例えば?」
「……体操、とか?」
「どう……だろうね。まあ、本当に変なことはさせないと思うよ」
 私は結局、何一つ確かなことを言ってあげることが出来なかった。小鐘ちゃんは俯き、黙りこくってしまった。
 ハイレグと言えば、私が生まれるよりも前に流行ったデザインだ。水着とか、レースクイーンとか、あとはエアロビクスとかの体操の衣装でも使われたって聞いたことがある。脚長効果とか動きやすさとかは理解できるけど、それと引き換えに恥ずかしい思いをするのはどうなのかな、と感じる。それとも当時の女の人は、ハイレグを恥ずかしいとは思わなかったのかな。
 そんなことを考えているうちに、
「じゃ、行ってくるわね」
 睦子さんの更衣の番がやってきてしまった。ハイレグを持って小部屋に入った睦子さんと、扉越しに目が合った。
 普通におしゃれな格好をしていた人たちも、一度あの扉に吸い込まれ、再び外に出てきたときにはハイレグ姿に変わってしまう。ロビーであれだけ戸惑っていたあの子もその子も、次々に単色のハイレグレオタード姿になってしまった。ある子は照れて局部を腕で隠しながら、またある子は吹っ切れたように堂々と。
 睦子さんも間もなくそうなるのだ。そして、私も。
「……!」
 私の前にはもう誰も居ない。あるのは更衣室の扉だけ。次は私の番だ――そう実感した瞬間、全身が震えだしてしまった。あと数分もしないうちに私も皆と同じハイレグ姿になるんだという事実が、質量を持って頭を打つ。
「白瀬さん……?」
 と、上目遣いで見つめてくる小鐘ちゃんに、私は何とか「ごめんね、大丈夫だよ」とだけ喉の奥から振り絞った。
 ……年下の子にまで心配させてどうするのよ、私!
 私も小鐘ちゃんの覚悟を見習わないと。そうよ、レオタードがいくら際どくたって、女性用の衣装であることに代わりはないんだから。それに、恥ずかしいのは皆も同じだ。赤信号、皆で渡れば何とやらだと自分に言い聞かせる。
 睦子さんが着替え始めてから2分ほどで、扉が開いた。そこには赤のハイレグレオタードをしっかりと着こなす、睦子さんがいた。ああ、睦子さんまでレオタードに。
 でもそんなレオタード姿に、私は目を奪われた。
「どうかしら? 白瀬ちゃん、小鐘ちゃん」
「すごい……似合ってます」
 小鐘ちゃんも頷いて私に同調する。これはお世辞でも何でもなかった。メリハリのある大人の身体の魅力を、レオタードが余すところ無く魅せつけている。似合い度ならあの赤髪の子にも負けていない。
「ふふ、ありがと。それじゃ、私は先に行ってるわ」
 と軽く手を振り、睦子さんは私たちに背を向けた。ハイレグはハーフバックデザインのため、お尻の膨らみが半分収まっていない。さっきこそ弱音を吐いていた睦子さんだったけど、今は全く意に介している様子を感じさせなかった。やっぱり、場数を踏んでいる人はすごい。
 ……私にも、出来るかな。
 さあ、とうとう私の着替える番だ。自覚した途端に、心臓の鼓動が最高潮になる。大きく二度深呼吸。
「が、頑張ってください」
「……うん、ありがとう」
 小鐘ちゃんの励ましを受け、私は小部屋の中へと歩を進めた。小部屋の奥の面は鏡張りになっており、顔を真赤に染めた私が映っている。ここに入ったらもう、次に出るときにはハイレグ姿だ。扉を閉めると、バン、とマグネットが引き合う音がした。
 なるべく外からの視線を意識しないようにして、私はレオタードを広げた。肩紐を持ち、畳まれていた赤い生地を下に垂らす。同時にえげつないV字カットが、私を出迎えた。
 ……今から私は、これを着るんだ。このカットが、私のお腹に来るんだ。
 鏡を覗いて、まだデニムスカートが覆っている自分の下腹部にVの字を想像で描いてみる。……うう、やっぱり恥ずかしい。でも、もう後戻りは出来ないから。
 まずはシャツとスカートを脱いで丁寧に畳む。下着も外し、その上に乗せた。生まれたままの姿になってもう一度、ハイレグと対面する。
 ……大丈夫、大丈夫。怖くない、恥ずかしくない。頑張れ、頑張れ私……っ!
 そう自分に強く言い聞かせる。緊張で呼吸が浅くなるが、ここからはノンストップでやらないと覚悟が鈍ってしまうそうだった。
 肩紐を左右に開き、両足をレオタードの大きな足ぐり穴に入れた。後はパンツを穿く要領で引き上げればいい。
 屈めていた上体を起こしていくと同時に、レオタードの柔らかな布地が足の産毛を逆向きに撫ぜる。ふくらはぎはともかく、頻繁にレオタードが擦れる太ももは敏感にくすぐったさを訴えてきた。
「う、ふぅ……っ」
 そうしてようやく股布が正しい位置に辿り着く。レオタードは今、ゆるゆるのローライズのパンツ程度の角度でしかない。でもここから先は、容赦なくハイレグになっていくに違いない。
 ゆっくりと、しかし止まることなくレオタードを腰からみぞおち、胸の下まで引き上げていく。その過程で予想通り、布地は上に引っ張られて徐々に見事な角度を描き始めた。しかも股間部分の布がグイグイと伸びてきて、これじゃ完全に――
「っ!」
 慌てて指で食い込みを整える。ついでに鏡を使って、お尻のめくれや左右のアンバランスさも修正しておいた。
 へその凹みも分かるほど、お腹が全方位からキューッと締め付けられる。やっぱりスクール水着なんかとは伸縮性が段違いだ。それにまだまだ途中なのにもう、スクール水着よりも何倍もハイレグになっている。こんな心細さ、心もとなさは今までに経験がない。
 後は胸を押し込んで肩紐を掛けるだけ。それで私は完全にハイレグ姿になってしまう。
 脈拍が鼓膜に直接響き、身体がカッカと火照っている。でもそれは、本当に緊張と羞恥心のせいだけなのだろうか。実はほんの少しだけ、好奇心が混じっているってことはないだろうか。ハイレグへのこの嫌悪感は、もしかして興味の裏返し?
 ……違う、そんなわけない。
 自分がそんな、ハイレグを着てみたいと思っている変態だなんて認められるはずがない。
「……ふぅ」
 脳裏を過ぎった妄想が勘違いだと証明するために、私は右手で伸ばした肩紐の中に右腕を素早く潜らせた。ズズズ、と右の腰をレオタードが擦り上げる。紐を掛け終わったときには、右側のハイレグ部分がしっかりと完成していた。鏡で見ても、やっぱりこの角度はエグすぎる……。
 とにかく、胸を片方放り出した原始人のような格好ではいられない。左腕も同じ要領で肩紐を掛けていく。こうして、
「うわ……」
 私は赤いハイレグレオタードに、全身をくまなく包まれた。サイズは驚くほどにピッタリフィットしていたが、締め付けの強さは部位によって微妙に異なっていた。布地が伸びている肩紐や股間部分が一番キツく、次いで胸やお尻などの膨らんだところに張りを感じる。布の縁の線の感覚は意外にも前よりもお尻の方が強く、Tバック状態にならないよう気をつけないといけなさそうだった。
 そうは言ってもやっぱりハイレグの急角度は、恥ずかしいの一言では済まないくらいに恥ずかしかった。デリケートゾーンの逆三角形の鈍角の、半分ほどの角度だろうか。きっと開き直ってしまえば開放感があるとか言えるのだろうけど、鏡に映る私は無意識に内股になり、モジモジと腿を擦り合わせていた。どうにか少しでもハイレグ度合いを軽減できないかと、腰のあたりの布を伸ばしてみる。すると一旦は3センチほど下がったものの、すぐに嘲笑うように元通りになってしまう。
 私は抵抗を諦め、脱いだ服をまとめると扉の取っ手に手を掛けた。これを開けば、私のハイレグレオタード姿が人前に晒されるんだ。でも、
 ……私だけじゃない。皆同じハイレグなんだから。睦子さんもあの子もとっくにハイレグだし、小鐘ちゃんもすぐこうなるんだから。そうよ、ハイレグなんて、全然恥ずかしくない……!
 そう何度も心の中で唱え、私は小部屋を出る。正面の小鐘ちゃんは私と目が合った途端に「あっ」と呟くと、視線を下へ、そしてすぐ首ごと横を向いた。
「ご、ごめんなさい、ジロジロ見ちゃって」
「ううん。別に大丈夫」
 小鐘ちゃんが心配するほど長く見られた意識は無かったけれど、そう謝られると逆にこっちも恥ずかしい。見たなら見たで堂々としてもらった方が気が楽なのだと、身を以て実感した。
 すると小鐘ちゃんは、申し訳無さそうに私を見上げて言った。
「あの、もし良かったらですけど……わたしが着替えるの、待っててほしいな、って」
 今の更衣室で未だ着替えをしていないのは、小鐘ちゃんだけだった。他の小部屋では各列最後の子が更衣中なのだ。こうなったのは私の着替えが遅かったからに違いない。責任を感じ、私は「待ってるよ」と頷いた。小鐘ちゃんはホッとしたように微笑むと、一礼して小部屋に駆け込んだ。
 私は小鐘ちゃんを待つ間にロッカーに自分の服を仕舞い、彼女以外の四人を見送った。時々静かな室内に、小鐘ちゃんの戸惑いの声が漏れ聞こえる。
「ひゃ! ……あ、す、すみません……」
「慌てなくていいよ、小鐘ちゃん」
「はい……」
 いくら普通のレオタードを着慣れていると言っても、ハイレグに対する反応は私と同じで初々しいものだった。
 ……それはそうよ。こんなハイレグ、誰だって抵抗があるに決まってる。
 何の気もなしに、私は足ぐりのVラインをゆっくりと両手の指でなぞった。すると、
「あはっ……!?」
 一瞬、感電したかのような衝撃が全身を駆け巡った。筋肉が痙攣し、腹の底から空気を押し出す。私はふらつき、そのままペタンと床にお尻をついてしまった。
「どうしたんですか?」
「な、何でもないの。ちょっと目眩がしただけ」
 どうやらおかしくなったのはあの瞬間だけで、今は何ともないようだ。恐る恐る立ち上がっても、ハイレグが肌を撫でる感覚があるだけ。
 ……でも、何だったんだろう。
 何か変なことをしたわけでもないのに。それにあの感覚、まるで――したときみたいな……ううん、もしかしたらそれ以上かも。
 無意識のうちにするすると、私の両手が切れ込みに近づいていく。それをすんでのところで止めさせたのは、正面の扉が開く音。
「お待たせ、しました」
 と、私と同じ赤いハイレグに着替え終えた小鐘ちゃんが現れる。服を持った両手を前で組み、まるでハイレグ部分を隠すかのように。
「やっぱり、恥ずかしいよね」
「はい、すごく……」
 和服が最も似合うだろう、するんとした体型の小鐘ちゃんのハイレグレオタード姿には正直、犯罪臭がするほどのギャップを感じざるを得ない。しかし何故か、そのアンバランスさが逆に可愛いとも思えた。……というか今まで見た中で、ハイレグ姿を醜いと感じた子は一人もいなかった。ハイレグには女の子を魅力的に見せる効果でもあるのだろうか。
 だから彼女に自信を付けさせるため、私はあえて感想を口にした。
「でも大丈夫、似合ってるよ」
 服を片付けていた小鐘ちゃんは目を丸くして振り向いた。そしてあたふたと狼狽えながら、言う。
「白瀬さんも、あの……す、素敵ですよ?」
 ……そっか、私もか。
 不思議と、悪い気はしなかった。

 案内に従って階段を一つ上がり、オーディション会場と書かれた広い部屋に入る私と小鐘ちゃん。
 今入ってきた扉と隣の部屋に繋がる扉を除き、全面の壁に手すりと鏡が張られたレッスン場。そこに30人以上の女の子が、レオタードの色ごとに列を成して気をつけの姿勢で並んでいた。赤の列の後方から、睦子さんが私たちを招くアイコンタクトをしてくれていた。私たち二人はそそくさと睦子さんの後ろにつく。
 やがて張り詰めた空気を破るように、隣の部屋からの扉が開く。全員の視線が注がれる中現れたのは――ベージュのパンストを顔に深々と被った男の人だった。
 パンストは言わずもがな、脚に穿くものだ。頭に被るなんて、テレビでお笑い芸人がやっているのしか見たことがない。そういうときパンストの中の顔は酷く潰れているものだけど、この人のパンストはデニールが物凄く高いのか、瞳の黒いこと以外は全く判別できなかった。因みに顔から下は真っ赤な男性用スーツだ。
 ただ、例え異常な格好とは言えどこの事務所の人には変わりない。それに異常な格好なのはお互い様でもあるし。誰も息を呑む以上のリアクションはせず、黙ってパンストの人の言葉を待った。
 パンストの人はレッスン場の前に立ち、首を何往復もさせて私たちを見渡す。そして「ふむ」と満足したように鼻息を漏らし、くぐもった声で挨拶を始めた。
「皆、遠いところご苦労様。8190プロダクションにようこそ。私が8190プロのアイドル部門のプロデューサー、パンストという者だ。まあ、パンストPとでも呼んでくれ」
 何とも言えない微妙な雰囲気が立ち込める。が、パンストPは素知らぬ様子で続ける。
「ここに来ていきなりハイレグを着るよう言われて、ビックリしただろう。中には着るのが嫌で帰ってしまった子もいただろうね。驚かせて済まなかった。でもこれもオーディションの第一段階だったんだ、どうか許してくれ」
 そう考えると、この時点でもう三分の二は振るい落とされたということになる。合格者が何人になるかは知らないけれど、確率は随分上がったはず。
 もしかして、と楽観的になりかけた気分を引き締め直すように、「さて」とパンストPが手を打ち鳴らす。「ここからが最終オーディションだ。今からその方法を説明するよ」
 私たちは固唾を呑んでパンストPの言葉に傾聴する。
「簡単なことさ。僕が名前を読んだ子から一人ずつ前に出てきて、自己紹介と志望理由を言ってもらう。その最後には――」
 そして次に聞こえた単語の意味を、私たちは誰一人理解することはできなかった。
「―― 一分間のハイグレをしてもらうよ」

   *続く*
香取犬
http://highglepostoffice.blog.fc2.com/blog-entry-49.html
2016年04月02日(土) 23時43分29秒 公開
■この作品の著作権は香取犬さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
新興宗教ハイグレ教に自分の作品を載せることがずっと夢でした! それが叶って本当に嬉しいです!
昔からここと各職人さん方には大変お世話になってきました。これで恩返しとなれば良いのですが……

厳しいオーディションやレッスンを経て、ハイグレアイドルとしての資質を身に付けていく彼女たちを、どうか応援してあげてください

本作の更新情報は、拙ブログにて同時に公開します。色々手を出してしまって更新は遅いかもしれませんが、細く長くお付き合いいただければと思います
*一次更新 16/04/02

この作品の感想をお寄せください。
投稿ありがとうございます
感想遅くなって申し訳ありません
管理人の(略して)なです
Blogに投稿するという記事を見たときから凄く楽しみにしてました
もしハイグレアイドルがどうやって生まれるのか、描写が細かく非常に興奮しました
続きも楽しみにしております
これからもよろしくお願い致します
な@管理人 ■2016-04-10 22:51:39 kd182250251199.au-net.ne.jp
(ここでも先を越されているとな・・・!?(謎)
こんばんハイグレー!(`・ω・´)ノ 読ませていただいたので感想をばー

相変わらずたっぷりとしたボリューム且つ流麗なハイグレ小説、素敵です(*´д`*)非ハイグレ光線系洗脳描写のキモであるハイグレ着用の描写も微に入り細を穿つ丁寧さのおかげで白瀬ちゃんの恥ずかしがりながら着用するシーンの脳内再生余裕でした・・・!

個人的な趣味で小鐘ちゃんの活躍を期待しつつ次回更新心待ちにしてますー!(`・ω・´)ノシ ではではー!
0106 ■2016-04-08 04:40:27 57.191.130.210.rev.vmobile.jp
(ふふ私が一番ノリだな…)
早速読ませていただきました!戸惑いながらも知らない間にハイグレ人間への一歩を踏み出した3人 今後どのような破廉恥なハイグレ試練が待ち受けるのか!楽しみですね(ゲス顔)ホムペのキャライメージも踏まえてとても良い作品です!続編も期待っす
ROMの人 ■2016-04-03 02:41:40 softbank126090059113.bbtec.net
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